心の世界から気づきの世界へpart2

先日書いた記事の続き。

(読んでいない方は、3月6日の記事から読んでみてくださいね)

 

山を見ている人たちの話の4人目の話。

聞きたいという生徒さんがいましたので、頑張って言葉にしてみます。

(安曇野から時々来てくださる生徒さんなので、なかなか会えないですから。。。)

 

***では、はじめましょう(笑)

 

 

多分、多くの場合、私たちは、幸せに生きるために、苦しみをなくすために、私たちの思いをポジティブなものに変えようとしたりします。

 

あの話の例えを使うなら、「なんだ、ただの山じゃないか」と言っていた人が、「なんて綺麗な山だろう」と思える自分に変えていこうとしたりするということです。

ポジティブシンキングや、アファーメーションなんかを使ったりして。

 

でも実は、あの3人の人は、どの人も本当の山を見ているわけではありません。

 

自分の心の状態から(心のかけたフィルターから)山を見ているので、自分が見たいように見ているわけです。そしてそのことに気づいていません。

 

その人(の心)にはそう見えるということで、本当のその山を見ている人はその中にはいないのです。

 

もちろん、自分の見方を変えれば、経験が変わりますから、「ただの山じゃないか」と見るよりは、「なんて綺麗な山だろう、晴れているし、花も咲いている、、、」と思えたほうが幸せな経験ができます。

 

でも、その場合、もしも、黒い雲が覆ってきて、風が吹き始め、雨が降り出し、辺り一面が暗くなった時に、今度はどう感じるでしょうか?

 

外の世界の状況によって、心の平安は乱され、外の世界の状況によって、自分の幸せが左右されるということになります。

(それが普通と思われている生き方です)

だから私たちは、外の世界や人を変えようとしてしまいます。

 

でも、ヨガの教えでは、自分とは一体何なのか?を知りなさいと言われています。

自分が考えている自分ではなく、本当の自分という、形を超えた、そのエッセンスを思い出しなさいと言われています。

 

そして、そのエッセンスは、万物の中に等しく息づいている同じものなのだと思い出せるところまで行きなさい。それがプラクティスです。。と。(これは、私の独自の翻訳ですが)

 

そして、もし思い出せたとしたら、自分も、あの人も、そしてあの山も、同じなのだということを知り、あ〜全ては一つで、その一つである大いなる意識が、様々な表現として(例えばあなたという形として)現れているのだと感覚的に腑に落ちてくるでしょうと。

この感覚で生き始め、生き続けることがサマーディ(だと私は思っています)。

 

 

そうすると、山を見た時に、4人目の人はどうなるでしょう。

 

その山に、

 

自分自身を見るのです。嵐の中であろうと、晴天の緑に覆われた山であろうと。。。

 

そして、他人の中にも。。。全ての人の中に、同じように、自分自身を見るのです。

 

その繋がりが腑に落ちた状態で生きている人にとっては、あの山は、山であり、自分。

そして、美しいと思うかどうかは自分のものの見方であると気づいているので、美しい!と感動しているかもしれませんが、同時に、そのもっと奥にある本質を見ているということです。

 

嵐の中の山であろうと、雪山であろうと、新緑の山であろうと、その中に、いつも在るひとつ のものを見ているのです。

 

そして、自分の中に湧いてくる感情があるとすれば、それがどんなものであれ、それを充分に味わい、同時に自分の考えや思い込みから解放されているので(フィルターをかけていないので)、その人にとっては、全てが豊かな経験という魂の栄養になるわけです。

悲しみや怒りや喜びや、、、どんなものでも同じように。

現れては消えていく、空の雲のように。

 

何を感じても、魂は「豊かな経験をしている」と、根底で気づいている状態です。

 

 

例えば、Yoga Contact には小さな祭壇があります。

そこには、ブッダと、ラクシュミーの絵(どちらもいただいたもの)と、私の尊敬しているスワミサッチダナンダの写真と、生徒さんが持ってきてくださった、ケン先生の写真が飾ってありますが、私がお祈りをしている時には、私はその全ての奥にいる「それ」、神様と言ってもいいし、宇宙といってもいいし、大いなる意識といってもいいし、とにかくこの世界全てを創造した「それ」に祈っているのだと感じています。その奥にあるのは、同じもの。

 

もちろん自分の中にも同じように在るものに。。。。

 

そう感じます。

 

 

どの宗教の人たちも、そう感じることができたら、自分たちの信じている宗教が一番だとか、どの神様が一番だとかというナンセンスな話にはならないのにな、、、と思います。誰を選ぶかは好みで、でもその大元にあるのはひとつなのだと。

 

私が好きな、スワミサッチダナンダの言葉「真理はひとつ、そして、そこへ続く道は無数に在る」

 

全てはひとつなのだから。。。。。。

 

何かを信じている人だけが救われるとか、、、、あるわけがない。

 

だって全てを創造したもの「神という名前を付けても」は、その創造物全てを愛していると思うのが自然ではないでしょうか?信じないものは救わないなんて、そんな小さなものではないでしょう。この世界全てのこの秩序、神秘、奇跡を創造した力ですから。

罰も与えないし、地獄にも落とさない。私たちはみんな愛されている。

 

って、私は子供の頃から感じています。

 

文字で書くことができるのは、今日はこの辺で。

あとは、セミナーなどでお話しします。いつも書いていますが、ヨガって言葉は使っていますが、ヨガと言わなくてもいいのです。大きく捉えていただけるとありがたいです。

 

Yoga Contactでやっていることは、今日書いたことのための実践です。真にそれを生きることへのガイダンス。知識で覚えることではなく、それを生きるためのプラクティスです。

 

次回のセミナーは、来週火曜日11:30〜

Sunday Training Class は4月7日です。(あと3名入れます)

どちらもまだ受付中です。

Homeとお知らせのページをご覧ください。

 

おやすみなさい。。。

 

 オーム タット サット